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2006/06/26//Mon * 19:47
●○THE CONFESSION OF MANY STRANGERS

  原爆を落としたパイロットを、この物語の作者は、いったいどのような人間として
描き出そうとしているのか――。その答えは、一言で述べられるものではない。
また、戦争そして原爆投下についてしばしば議論されるような、善と悪との二元論的な
話でもない。少なくとも主人公のパイロットは、ひとえにこのような人物だと
言い切るにはあまりに多面性をもった人物として描かれている。

  そもそもこうしてこのパイロットが話の主人公となったのも、
彼が原爆を投下した人物だからである。だからではあるが、
作者は単に原爆を投下したときの彼の心情や、そのとき彼をとりまいていた
関係についてのみ描写したかったのではない。もしそうだとすれば、
彼の幼少時代を描く必要は無かったからだ。彼はのちに、歴史的にいえば
「原爆を投下した人物」として知られるようになる。人々はそうして彼を知るが、
それは飽くまで一片の歴史的事実としての彼の一部でしかありえない。
人々にとって、歴史的なそのパイロットは、原爆投下が行われた瞬間に生まれたことになる。
しかし実際はそうではない。彼は(勿論だが)、そのずっと前から生まれていた。
これは所詮結果から導き出された思考にすぎないのかもしれないが、
彼が原爆投下のパイロットとなったのは、まるで定められていた運命かのようにも思える。
はじめ彼はたくさんの選択肢を持っていたに違いない。医者になる道もあった。
あるいはそれを拒んでも、若いうちは何の職種にだってなれる可能性はあっただろう。
パイロットを夢見ても、別段戦争に関与することを夢見たわけではない。
況や原爆投下に関与することをや。
彼にははじめ、何本もの分かれ道があった。その真ん中に彼は立っていた。
そのうち一本を選択し、彼は進んだ。次に出会った分かれ道は十字路となり、
次第に、出会う道の数は3本、2本…と減っていった。
いつのまにか、彼には一本の道しかなくなっていた。その道幅も狭くなり、
ついには彼を迎え撃つ運命に目を背けることさえできない状況になる。
幼い頃からの彼の姿が描かれたこの話の流れからは、そのような印象を受けた。
彼には、選択の余地はあるようでなかったのだ、多くの分かれ道のなかで、
彼が選んでいった一本一本は、哀しい必然だったのだ、と感じた。

  この話は、主人公であるパイロットが原爆を落とし、
“I throw the sun!”と叫んだところで終っている。
のちに、“I’m proud of being the pilot who dropped the bomb over Hiroshima,”
などと打ち明けている箇所もあるが、その後の心境については詳しく
述べられてはいない。投下したところできっぱりと物語を終らせるこの作者の手法は、
インパクトと充実感をもたらすだけでなく、一見完結したようにみえて、
実はかえって私たちに大きな余韻を残させる。
主人公の感情は、ラストで最も高まっている。そこで話は終わるが、
その後彼は何を思い、どのような人生を送ったのか。私たちは想像を掻き立てられる。
それをどのように推理するかは、全く誘導されておらず、
すべて私たちの想像に任されている。しかし色々と想像はしてみても、
こうだと言い切ることのできる答えが見つからないのは、作者がそれだけ主人公を、
繊細な、多面性のある人物として描いてきた結果だろう。
その複雑な人間性はしばしば文章中から読み取ることができる。
例えば、“I go to the library and see my name in the history books,
and all I’m looking at is a couple of words strung together.”
という箇所は、どことなく空虚さを感じさせ、先程の
“I’m proud of being the pilot who dropped the bomb over Hiroshima,”とは矛盾している。
また、“you come to terms with how you deal with death, especially if you’re in the military.”
と言っておきながら、ドイツ人操縦士の血を見てこうも言っている。
“Sometimes after those aerial dog-fights, I’d have night-mares.”
更に、私たちにとってこれが最も印象的な箇所の一つに入るだろうと
予測されるのが、主人公が一人の小柄な日本人女性と出会う場面である。
彼は女性に話しかけ、近づいてゆくが、女性のケロイドにまみれた
(もしくは原爆の影響を受けた酷い状態の)顔を見るなり、
“What happened to you!” “Who put you up to this? I didn’t do that to your face?”
“Stay away!” などと、彼はこれまでにないほど取り乱す。
――こういった様々な言動から、自分の役割を冷静に理解しながらも、
一方では恐怖をも抱き、そのはざまで揺れ動く彼の繊細な心を見てとることができる。

 しかし先程述べたように、彼に自分の役割あるいは自分自身に対する恐怖心があっても、
彼にはそれを押し殺してまで “I don’t regret anything!”と
言わねばならない理由があった。それは、彼が彼自身の心を守るためである。
前に、「彼のその後についてこうだと言い切ることができない」と述べたが、
無論具体的には分からないとしても、実は大きく分けて2つしか
考えられる道はないのではないかと私は勝手に考察している。
その分かれ目は、彼が彼の心を守る術を生涯持ち続けることができたか否かである。

  人間は、精神的にあまりに辛い体験をすると、脳がその記憶を閉じ込めて
二度と思い出させないようにさせることがあるという。その辛い体験の影響で、
身体が滅ぼされることを防ぐためだ。つまり自己防衛機能の一つである。
主人公も、自分のしたことを閉じ込めてしまおうとしている傾向がある。
だから図書館の本に自分の名前を見つけても、
文字の陳列にしか見えなかったのではないか。この自己防衛を施しているかぎり、
少なくとも彼にとって彼は幸福に生きることができるだろう。
しかし残念ながら彼は完全ではない。たった一人の日本人女性を見ただけで、
大声で叫び、鶴を蹴飛ばすという、明らかな身体的異常を示している。
このときのように、いやそれ以上に彼の防衛機能を邪魔するものは、
その後の生涯のなかで次々と現れるだろう。
もし彼がそれらに耐えることができなければ、それはすなわち
彼の死を意味するのではないか。原爆投下によってもたらされた惨事は、
パイロットであった彼が理解するにはあまりに酷である。
この哀しい運命を背負ったパイロットが、罪の意識に彼自身を滅ぼされることなく、
生きてゆく道があったことを刹那に願う。

  勿論作者は私たちに対して主人公への同情を求めていたのではあるまい。
しかしながら、彼をただ一人の歴史的人物として捉えるだけでなく、
彼という人間そのものに少しでも考えを及ぼすことによって多面性を理解し、
一人の人間としての彼の存在を捉えることによって、
作者の言わんとしていた部分に少しは触れることができたのではなかろうか。
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